〈私(誰?)〉が14才のジャリのころ
画家パウル・クレーの考えかたに
学校教育台無し的になびいていたことがある
たまたま理系の兄さんの書架から引き出した
クレーの緻密な画論としての「日記」の中で
クレーはこんなことを書いていたからだ:
「動物やその他のあらゆる被造物に
大地に根ざした親愛の情を向けることは私には出来ない。
大地に属するものは、
宇宙に属するものほど私の興味を引かないのだ。」
このような「宇宙に属する」という考え方は
タマゴの殻から出てきたばかりで
尻尾を振り振りよたよた歩きの〈私(誰?)〉にとっては
動物行動学者ローレンツ先生のぴったりのご指摘どおりに
「あっ」というまに〈刷り込まれた〉〈親鳥さん〉だった
神戸生まれの者にとっての阪神タイガースと同じようにだね
そして その分だけ〈私(誰?)〉の頭が
ぽこんと余所にとび
賢治さんや中也さんの云っていたような
「遠〜いい」ものとしか遊ばなくなった
星とか
星雲とか
銀河系とか......
要するにその辺にざらに転がっている天文学好き少年
ところが〈アバウトに云うとするなら〉
それから〈おおよそ数百年後〉
(なぜならフランスの哲学者ドゥルーズが語っていたように
---もともと「幾何学的精神」と「繊細の精神」のバランスが
欠けまくっているこの島国では問題外だが---
アバウトに膨らみを持たせてしゃべったほうが
昔話にも似て物事が包括的に伝わりやすいのだ)
英国作家オルダス・ハクスリーの「減量バルブ」のイメージ概念に
不意に出くわし
またまたたっぷりとイカれてしまう
ハクスリーの仮説では
元はと云えば人には宇宙からの膨大な信号を受け容れる
「普遍精神(mind at large)」が在ったはずだが、
文明や技術の進化のプロセスで
それが失われ
人の感覚領域が狭くなる「減量バルブ」がセットされたという
彼は宇宙をもっと深々と読み込むために
「バルブ」を敢然として壊しにかかる
フランスの詩人アンリ・ミショーと同じように
劇薬メスカリンを服用することにより
英国きっての知性派作家が
処方を過つと命を落とす薬を用いて
おのれの日々の感覚を目茶目茶に引っ掻き回し
その眩暈に耐え抜きながらの克明な記述を試みたのだった
そして曰く
「世界がことごとく新鮮になり
私が見たものは
旧約聖書のアダムが迎えた最初の朝の輝きであった」
単に大地ではなく宇宙に属するものたちとの多声法的共振感覚
するとそれ以後〈私(誰?)〉の頭は
もっとコロコロ余所に転がり
大学教授就任をことごとく蹴飛ばし続けて
「遠〜いい」ものを見るためだけに
レンズ磨きの職人さんに断固とどまったスピノザおじさんの伝記にも
またまたイカれ
〈私(誰?)〉は
ますます
「遠〜いい」ものとしか遊ばなくなり
今も
「遠〜いい」ものからしか教わることがない
そうだ
もちろん
これから先も
「遠〜いい」ものと
「遠〜いい」ものからだけ
言葉Y先生、写真K