2011年5月26日木曜日

「本源的な失明の.....」

アルチュール・ランボーはこのように語った
「彼(詩人)は未知のものに到達し、
その時、狂乱して、
おのれの様々なヴィジョンについての
知的認識能力を失った時に、
はじめて彼はそれらのヴィジョンを
真に見たのです」等々と.....
.....この種の媒体(メディア)がゼロの目は
語源的な意味あいでの
〈無・命令(アナルショ)的〉の目でもあるなら
「ヴィジョン」の存否に関しての
猛禽類の免責の目

あるいは

いつでも祝祭日のような
全シナプスの煌めきに駆り立てられての
手垢にまみれた肯定や否定の〈外〉の
本源的な盲目ゆえの明澄・明視の目

あるいは

詩人吉岡実が
「大蛸の汎神論的な悪意の目」と記していたような
自然が自然を自然に見ているときの
いかなる宥(なだ)めや賺(すか)しの身振りも通用しない
不感無覚の目

あるいは

ミシェル・フーコーが
「これだ これだ」と指さしていた
不意に何かをラディカルに感じ取る
「本源的な失明」の目------
------そしてこの種の眼差しは
映画『ベルリン・天使の詩』に登場する
サーカスのブランコ乗り娘マリオンが
「閉じた目の中で
もう一度目を閉じると...
石だって生きはじめる」
と呟くときの
多声法的な否認の眼差しにも
螺旋状に先立ち連環する

だが
しかし.....
わたしたちの欲望には
この種の失明の音楽が
とことん欠けている

言葉Y先生、写真K