アルチュール・ランボーはこのように語った
「彼(詩人)は未知のものに到達し、
その時、狂乱して、
おのれの様々なヴィジョンについての
知的認識能力を失った時に、
はじめて彼はそれらのヴィジョンを
真に見たのです」等々と.....
.....この種の媒体(メディア)がゼロの目は
語源的な意味あいでの
〈無・命令(アナルショ)的〉の目でもあるなら
「ヴィジョン」の存否に関しての
猛禽類の免責の目
あるいは
いつでも祝祭日のような
全シナプスの煌めきに駆り立てられての
手垢にまみれた肯定や否定の〈外〉の
本源的な盲目ゆえの明澄・明視の目
あるいは
詩人吉岡実が
「大蛸の汎神論的な悪意の目」と記していたような
自然が自然を自然に見ているときの
いかなる宥(なだ)めや賺(すか)しの身振りも通用しない
不感無覚の目
あるいは
ミシェル・フーコーが
「これだ これだ」と指さしていた
不意に何かをラディカルに感じ取る
「本源的な失明」の目------
------そしてこの種の眼差しは
映画『ベルリン・天使の詩』に登場する
サーカスのブランコ乗り娘マリオンが
「閉じた目の中で
もう一度目を閉じると...
石だって生きはじめる」
と呟くときの
多声法的な否認の眼差しにも
螺旋状に先立ち連環する
だが
しかし.....
わたしたちの欲望には
この種の失明の音楽が
とことん欠けている
言葉Y先生、写真K