2011年5月18日水曜日

被災比べ

スーパーの入り口で二人のサラリーマンが話しをしていた。
内容は「どっちの被害が大きかったか?」
最初の地震の時にどっちが大変な思いをしたのかを競い合っていたのだ。
片方はやれ天井が落ちてきた。
もう片方は棚が全部倒れていた。
片方はビルから投げ出されるかと思った。
片方は床が抜けたかと思った。
すると片方は死ぬかと思った。
もう片方は地獄に堕ちたかと思った。
僕はてっきり甚大な被災地かと思ったが、
どうも市内のビルで働いている人らしかった。
馬鹿らしくなってとっくに地獄に堕ちてるよと思いながらスーパーに入った。
そのうち自分はこれだけ働いたとか言う奴も出てくるだろう。
自分の現場はこんなに凄かったとね。
ああ、もうテレビ出てるか。
まだ終わってもいないって言うのに。

先日のインターネットUNOパーティでアメリカ人は言い放った。
「そもそも死ぬかと思ったって時点で生きてるじゃねぇか。いつまでも言ってるのは負け犬だな。」と。
そのサラリーマン連中はまさにそうで、
そういう風に言う人こそ「経験しないとわからない」って言ったりする。
伝えたいのか伝えたくないのか。
要するに一人のKenji曰く「被災者ぶりたい」だけなんだろう。
甚大な被災地でも避難地域でもない癖に。
まぁ震災当時の話しは売れますよ、もてますよ。
けれどある種の人にはばれていて、
やっぱり「負け犬」って思われていたりする。
現在も被災している人はそんな話しより知りたい事が山ほどあるというのに。

擁護する訳ではないが、
東京にいた友人達もそれはそれは恐怖や不安を味わっていた。
ある人は家族のもとへ歩いて家に帰るまでの不安を話してくれた。

ある人は首都高がギーギーと揺れる音が頭から離れないという。
それぞれ大変だったのだ。
あるKenjiの話しをすると仕事に家族にカメラにブログに余震に放射能。
更に苦境の浜の友人に亡くなった親戚。
その状態でいっぺんをこの二ヶ月続けている。
彼らが現場にいないと誰が言えるのか。
何かをしている人はこの日本において"現場"である事に変わりはない。
特に2ヶ月後の今は。
それに誰かが欠けた時点で僕はこのブログをやっていなかったかもしれない。

そんな僕は最高に元気で、
今では世界を三周くらいできる気分だ。
でもやらないのは、
できないんじゃなくて、
できるだけ福島の為にその力を使いたいからなんだよ(フフン!)
半分嘘です。
やらないってことはできないってこと。
実際には東京へ行くだけでも疲労困憊で小学6年生にも振り回される始末だ。
まぁ十分だね。

そんな風に僕がなれたのは隣の家にいた少年のおかげである。
以前のブログにも書いた通り。
震災当時、
その揺れに膝がふるえ立ち上がれないと思いそうになったとき、
地面にうずくまる彼が目に入った。
彼のもとに走って、立たせた事で、僕はなんとか人間に帰る事ができた。
さらに「意外に俺っていけるじゃねぇか。地球も救えるかもなぁ」と調子に乗る事もできた。
彼に僕は救われた。
彼がいなかったらそのサラリーマンみたいに「死ぬかと思った。地獄かと思った」と二ヶ月経った今でも言っていたかもしれない。
その後となりの家の少年はPTSDになってしまった。
笑顔にも行動にも覇気がなく。
トラックの揺れで血相を変えて外に出てきてはゲェゲェとやる。
僕に責任はない。
しかし助けられたという恩はある。

二ヶ月。
動ける人も動いていた人も、
もっと動かなければいけない。
時代に先手を打ってもっと先へ行かなければいけない。
生活を取り戻せた人は福島の事ばかり考えていられない。
福島を好きなのはもうわかった。
風評被害は海外にも広がっているのだから。
福島のイメージ=日本のイメージだ。
僕ら福島県人だけではこの窮地は抜け出せない。
ただ振り返るのはそろそろよそう。
振り返るなら経験から未来を見つける為だけにしよう。
まぁさすがに『頑張ろう』はもういいけどね。

ばあちゃんやじいちゃんの震災後の行動は、
日を追う毎に未来へと変わっていく。
思い出せば思い出す程にいつも発見があるのだ。
それぞれの発見は絶対にあるはず。
被災比べではなく、発見を伝え合い未来になってこそ、
本当の偉大なる遺産になる。