ブリューゲルの絵のひとつに
「誰でも」という作品がある
ばっさりと端折っていうと
「誰でも」とは「誰でもないもの」のこと
それはまた
今は昔のホメーロスの『オデュッセイア』の
「誰でもない(nobody)」という「名」の流れも汲んでいる?
だがこの「誰でも=誰でもないもの」を描いた作は
「誰でも」だらけの〈今・此処〉の物語でもあり
その「誰でも」では
画面の右上方で
誰でもない二人の誰でもたちが
一本の長いボロ布を
奪いとるため
やっきになって引っ張りあっている
たぶん彼らはリルケの天使が
「エデンの園は燃えている」と語ったように
回帰してゆく起源も崩れ
世界のすべての手足が引き攣って
泡をふくまで
引っ張りあうのだろう
すると
既に/やがて
T.S.エリオットの『荒地』のなかの
水死して「商売の損得も忘れてしまった」
フェニキア人のフレバス同様に
海底の蟹になってしまった
誰でもない者たちの赤い甲羅に
それらについての
苦い記憶が
うっすら刻まれる
苦いながらもうっすらとした記憶?
詩人ランボーが作品「H」で
「オルタンスの扉は悲惨に向けて開かれている」と
断じていたように、
つねに扉が「悲惨」に向けて
「開かれて」いる
〈歴史=物語〉では
墓碑銘から墓碑銘へ、
記念碑から記念碑へ、
引きも切らずに書き継がれてゆく
怒り/復讐/恐怖/反省/悔恨/謝罪/償い等々
の言葉の群れは
まさにそれらが
ただ
そこに
その石に
〈刻み込まれた〉という安堵感により
新たな悲惨に「誰でもたち」を導いてゆく
忘却の文字にしかならないだろうから.....
言葉Y先生、写真K