Nintendo DSだ。
どこにも売っていなくて、
関連の売り場には一時期「売り切れ、次回入荷未定」の張り紙を良く見かけた。
ところでヒット商品が出ると必ず現れるのが、
類似商品、所謂パチものだ。
NintendoDSだと、DS自体はそれそのままだが、
ヒットの起因になった「知育ゲーム」が任天堂以外からも色々な所から発売された。
○○教授の〜とかキャラ物とか。
本物とパチものの違いは、
そのユーザーインターフェースにあると思う。
効果の程を考えるよりそっちで比べた方がわかりやすい。
例えば本物は色々な所に手が届く作りになっていて、
必要最小限の方法で複雑な内容に手を出せる様になっている。
ところがパチものというのは、色々な所が簡略化されているから、
当たり前にできる事ができなかったり、それが原因でまったく明後日の結果を出す。
又は本物より複雑に作り過ぎて、ユーザーにそれを強要し、結果に辿り着く前に嫌になってしまう。
酷い物だとどんな選択や操作でも同じ結果になると言う、
一昔前のフラッシュゲームみたいな物も存在する。
キャラ物に関しては何も言うまい・・・。
それでもしかし売れるのだ。
それを買う人間を所謂「情報弱者」と言うのだろう。
買う理由としては「本物が売っていなかった」とか「安かった」
、「本物だと思った」等かな?
ただ、僕が思うにパチものに手を出す人間は本質に置いて何も考えていない事が殆どだと思う。
何も考えず、周りが持っているから欲しいというそれだけで手を出す。
何か考えがあるのなら、パチものになんて手を出さないだろう。
理由は様々だが、結局は本物かどうかなんてどうだっていいのである。
情報弱者と言うのはまだ甘くて、
実際には情報化社会でなくても、そこにコミュニケーションや考えがあれば、
そう言った物を選ぶ事なんてないと思うのだ。
ユーザーだけのせいにしてしまうのはおかしい事か?
僕だって知らない物に手を出すとき、
やはりわかり易い値段や売り文句で動いてしまう事も在る。
しかしそう考えてみてもやはり選ぶのは自分なのだ。
自分なのだから自分だけに留めておけばいいのだけれど・・・。
日本人は洋服がわかり易いだろう。
少し前のVogue、それと同じ様な格好をあるモデルがする。
するとそのモデルに習って安価なパチ物を企業が出す、
その安価な物を買い大勢がモデルのマネをする。
街に出れば一目瞭然。
その人達に「どうしてその格好?」と聞けば、
「○○ちゃんが着ていたから」「周りが着ているから」と
Vogueの名前等一切出てこないだろう。
大本のスタイルをわかっているなら素晴らしい事だが、
"何も考えていない"のが殆どだ。
不思議なのはそれを着る事で更に豚の様になっていて、
何の為のファッションかわからなくなっている所だ。
もとより何も考えていないのは良いとしても、
流石に可愛くなりたいとは思わないのか。
そこでの反論はこうだ。
「安い物の何が悪いの?高いのなんて買えないじゃない。」
OK。
しかし高いのには理由がある事を考えた方が良い。
そしてその高さには多くの要素が含まれていて、
デザインや素材より前に知識や哲学がある事を学んだ方が良い。
その見えない物の具現化が形だという事を。
形だけ欲しい人間には最初から必要とされない。
だから似合わないし、へんな方向や結果を招くのだ。
「安い物の何が悪いの?高いのなんて買えないじゃない。」
という反論は全く見当違いで、
それを言えるという事は何も考えていないという証拠だ。
生まれた時からそいつには必要とされていない。
更にそのモデルもネジがとれているのが多いのだから目も当てられない。
哲学や歴史や文化等どうだって良くて、
伝える言葉も持っていない。
ただ鶏ガラみたいな足を出して頭の悪さに拍車をかけているだけである。
そういった伝える側、売る側が使う言葉は「不安」だ。
「皆持っている」とか「わからないと危険」だとか。
不安は利益を出す。
逆に言えば、利益の為なら人命等どうでも良くて
不安はいくら煽ってもOKという事だ。
企業側にマーケットがあるのならば、
ある種カモにされているという事に気付いた方がいいだろう。
だから色々な"ライン"が存在するのだ。
不安ライン、安全ライン。
ビジネスと見れば仕方の無い事だろう。
しかしながら、
僕は常にそのバランスが誠実な企業の物を選びたいと思うけどね。
そういった日本の風潮や心理は音楽でも映画でもなんでも一緒。
そこにオリジナリティ等一つも見いだせないだろう。
更に今はやり方が余計に複雑になっているから何故か本物より本物っぽい。
例えば最近の復刻物は完璧だが、それになんの意味があるのか。
何かニュアンスや気持ちの面で絶対に違いがあるというのに。
本物を持っている人間は寂しい気持ちになるばかりである。
本物を知らない人間が増えているという事だろう。
いや、本物への愛情等どうでもいいのだろう。
自然食品やエコなんてのもそうで、
"言葉だけを見れば正しい"事に感じる所に悪がある。
そういうやり方が余計複雑にさせているが、
歴史や本物は動くにせよ変わらないという所を見れば、
何も複雑な事はないと思うのだけれど。
伝える側はそこまでを伝える義務があると思う。
じゃなければ、それが何処まで到達してそこで何がおきるか、
それがジェノサイドになってしまった時取り返しはつかないのである。
本当の本物への愛情というのは、
同じ物を作る事ではなく、新しいものを作る事、新しい知識を伝えるまでの意思ではないのか。
だから本物は常に古くて新しい。
そしてそれこそがインターフェースという物だ。
グーグル先生で「ガイガーカウンター」を調べると、
「ああ、先生も営業ばかりで大変だなぁ」と、
右側の広告欄に「人気のガイガーカウンター」とでているのだ。
おもちゃレベルのガイガーカウンターでみんなが楽しんでいるのは構わないが、本物のガイガーカウンター、例えばMade in USA物を持ってして正確な知識と範囲で使用している人達に迷惑をかけてはいけないと思う。
思い上がりも甚だしいある種の日本人。
選んでいるようで、まったく選んでいないという事に気付いたら良い。
確かにそういった風潮を作ってきた酷いセンスの日本政府に文句を言うのは簡単だ。
しかし文句を言うのは決まってそういった人間だ。
自分が何者で何をできるかと考えた時に、
僕らは自由である事を感じなければいけない。
耳を塞いで、目を塞いだとき、一体何がみえるだろうか?
何を必要とするだろうか?
目を塞がずとも起きたと言う事実を忘れてはいないだろうか?
それでも音楽や絵を作り上げた歴史上の人物がいるのだから、
事象の後に歴史に残る作品が多いのだから、
僕ら人間にとって本当に必要な物は選べない事等全くないのだ。
才能等は関係ない。
そしてそこではお金等もっと関係ない。
本当に必要なら家さえも手放すのだから。
ある映画監督は映画を作りたいが為に銀行強盗を働いたと言う。
嘘かホントか、
しかし目的は正義である事と僕は思う。
その作品はとても誠実だからさ。