フランスの詩人ジャン・コクトーは云いました:
「子供たちよ、君らの両親が残念ながら本当のオトナになってしまったら、
彼らに本の読み方を教えてやろうぜ!」
近代社会は、とりわけ高度技術化社会とやらにあぐらをかいた「オトナ社会」は、「本」を完全に読み違えてきたようですね。
江戸時代の医師・〈日本人に忘れ去られていた〉安藤昌益は
秋田の大館や青森の八戸に居所をかまえて、
幕藩体制を激烈に批判した大著『自然真営道』のなかで家康のことを「けもの」呼ばわりまでしていましたが、東北地方一帯の恒常的な飢饉のあいだ、地域の人々を献身的に助けまくり、そこでの厳しい体験と観察をもとに、おのれの哲学の根本原理を「力動的な自然」に置きました。
まるで古代ギリシアの自然哲学の哲人たちのように。
昌益はその著のなかでは、
当時の怠慢な官学・朱子学の体制護持の静態的な自然観を〈でんぐり返して〉
自然(じねん)のことを〈流動的・動態的〉に
「自(ひとり)然(する)もの」と捉えておりました。
なるほど「ひとり・する・もの」!
すると、その見方からすれば、自然は人間の〈勝手な思い込みの枠〉には
決して収まらず、「1000年に一度」などという愚にもつかないことを口走る御用学者どもの「想定外」の領域を
〈ひとり〉でに
素っ気なく
あっけらかんと
動いたりもするのです。
よって、〈こんな時〉、
オトナ社会は、もう一度、
子供の〈直球的〉な視点に立って、
宇宙、自然という巨大な本を
その根本から〈読みなおす〉必要がある。
要するに、あなたも私もその「本」の中の在るか無いかの小さなシミなんだからこれから先も「下手に長靴を動かすな!」(註)
「Y」発
(註:詩人アルチュール・ランボーの言葉にて「長靴」は「軍靴」をも意味する)