2011年5月14日土曜日

ネギサラダ然々

好き嫌いってありますか?
僕はネギが苦手。
歯ごたえというのか、
あのシャリっていうのがとても苦手。
味も苦手でそのまま食べるなんて考えられない!
けれどラーメン等にネギが入っていないのは考えられないのだ。
この感覚がわかる人、いると思う。

震災の前に写真のワークショップに参加し、
そのワークショップの最後は飲み屋と決まっている。
写真は撮るだけが勉強なのではなく、
人生の粋も学ばねばならない。
と思わせてくれるのが僕の写真の先生だ。
僕の様な田舎者に彼の達人の様な粋を学べるのかは謎であるが、
やはり色んな人とお酒を交わし、時に無意味に怒られるのも大事な事だ。
"無意味に"
口を酸っぱくして僕より上下する若者に伝えたい。
今こそ現代社会で"無意味"だと思われている事がとても大事な時代なのだ。
やろうぜ無意味革命!

そこで出て来たのがネギサラダ。
天敵め・・・。
その昔僕は親父のスパルタネギ教育でちっとばかりトラウマも持っている。
でも食べない訳にも残す訳にもいかない。
何故なら味よりもここは粋だ!
なんとか量をとって口に入れる。
美味かった。
美味かったけどどこか懐かしく、
気恥ずかしくなる味だった。
その味付けは二種類のネギにごま油をかけたもの。
先生は言ってしまった「ネギ塩カルビのネギ塩の部分」
美味くて当たり前だ!
そして懐かしくて当たり前だ!
貧乏生活のアイディア料理の発想じゃないか・・・。
「肉が買えないから、とりあえず気分だけでも」という発想。
豆腐にカレーをかけていた時代が懐かしい・・・。
だんだんと味よりも面白さで勝負な部分へ行く所はそっくりだ。
それで、美味くてあっという間に食べてしまった。
なんというかあれがネギ塩の完成形なのかとも思った。

震災前の生活は震災後の生活より当たり前に長い。
だから時間が経つ毎に、
「震災前はあんなだったなぁ」とか「あれをしようと思ってた」とか思い出してしまう。
食べ物に関しては特に。
そう、
放射能である。
今まで当たり前に食べていた物が食べれなくなったりしている。
それは国の判断は勿論、個人の判断でも。
僕は震災直前にまたネギサラダを食べようとそこへ行こうか、
それとも自分で作ろうかと思っていた。
それを今日出かけた先、
ばあちゃんの畑のネギを見て思い出した。

自分から言ってしまおう。
福島市の放射線は他と比べて高い所がある。
しかしながら、
僕はばあちゃんのネギを何の気なしに食べている。
そして僕の友人もそれを送ってくれと、
同じ貧乏時代を過ごした友人も食べている。
もちろん。
検査を受けての判断だ。

一つ。
顔のわからない放射性物質も農薬も虫もついていないコンビニのサラダ。
一つ。
微量の放射性物質がついているかもしれなくて、虫もついていて、
だけど作っている人がテーブルの向かい側にいるサラダ。
どちらが安心で安全か?
前者はそれにより食中毒を起こしてしまった訳である。
後者はそれにより・・・まぁわからんね。
ただ農家は馬鹿じゃない。
CoolでSmartだ。
僕はわかっていて自分で判断している。
そして前者を食わねば生きて行けないのもまた現代社会である。
それだって自分で判断して食べている。
しかし放射能に至ってそれが当てはまるかと言えばわからないのが本当だ。
ただ、僕にとって安心というのは"顔が見える"というのは間違いない。
震災後だって顔が見えない人は電話やメールが繋がっていたって不安だった。
他より少し高くてもできるだけ顔が見える所で買いたい。
忙しい時はファストフードは有り難い。
そのバランスをすこしずつ変えて行ける社会になったらいい。
そうなれば原発だって今程には必要なくなるだろう。
商品管理という言葉の前に、
人の顔があれば、何か間違いが起きても、
範囲の中であれば許せてしまう事だって実際には多い。
僕はもし将来今日のネギが原因で何かあってもばあちゃんを責める事はしないだろう。
もちろん。
国も東電もね。
今僕は日々本当の安全と安心、人間の倫理を作り直している。
その経験はかつてない程有意義なのだ。

ネギサラダ。
しっかり洗って、新鮮な状態にして食べる。
でもやはりネギは苦手だった。
ワークショップの後のが美味い。
それもやはりそこにしかない人の顔があったからである。