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「〈生かす石〉から〈殺す石〉まで」

新・旧約の聖書のなかには、
〈生かす石〉から〈殺す石〉まで、
さまざまな石が現れ、
数かずの石が飛び交い、
石の文明の長大な流れをとおして
それらの石は今も谺を交わし合っている。

たとえばカインがアベルを撲殺した石。
アブラハムが神の絶対的な命令のもとに
最愛の息子を生け贄として殺すために黙々と築いた祭壇の石。
ヤコブが仮寝の枕とし、
神の王国への梯子の夢を見たということで、
それに祝福の油を注ぎ、
その地を「ベテル=神の家」と名付けるもとになった石。
モーセが十戒を刻んだ石板。
「出エジプト記」や「申命記」では、
石を神聖なもの、
命あるものと見なすがゆえに(註)
それを鉄器で加工することが禁止されていた石。
もの言わぬ状態を象徴する「ハバクク書」の石。
ダヴィデが巨人ゴリアテを打ち倒した石。
異端視され道化視されるイエスに向けてバラバラ飛ぶ石。
「隅の石」たるイエスの上に「霊の家」として築かれる
キリスト教徒ーーーー「生きる石」たち。
バプテスマのヨハネがユダヤの指導者に対し
「神はアブラハムの子を石ころからでも
起こすことが出来るのだ」と語りかけた時の、
〈子を孕む石=アブラハムの老いた妻サラ〉。
イエスの亡骸が信徒たちに運び去られるのを防ぐために
墳墓の入口にどっしり置かれた巨大な岩石。
キリスト教徒の礎となる使徒ペテロの
名前そのものでもある石。
さらには
あまたの姦淫の女たちを
掟の名のもとに打ち殺した石、石、石、石・・・

石の話を拾ってゆくときりがなくなる。
それゆえここでは、新・旧約の聖書の中でも、
いちばん〈批評的=危機的〉な石の話に的を絞ると
それは「ヨハネによる福音書」のなかの石。

その挿話では、
オリーヴ山の麓で群衆に語りかけていたイエスのもとに、
律法学者やパリサイ人らが姦淫の罪を犯した女を捕え、
引き立ててくる。
しかしなにゆえ、
ユダヤの長老や司教たちのところではなく、
ことさらに、イエスのもとに?
つねづねイエスに反感を持つ彼らとしては、
イエスに手の込んだ罠をしかけて
イエスを窮地に追い込むためだ。
彼らの〈試し〉にイエスが応じて、
もしも女を「殺せ」と言うなら、
愛と許しを説いて回るイエスの矛盾を群衆の前でまず嘲笑い、
さらに当時の支配者・ローマ帝国への越権行為で
イエスを当局に訴えて死罪にさせる心づもりだ。
イエスがもしも「殺すな」と言うのであれば、
ユダヤの掟の違反者として、
これまたイエスをなおざりにな裁きにかけて殺す構えだ。

そこではイエスは「殺せ」とも「殺すな」とも絶対に言えず、
一挙にダブル・バインドの状態に追い込まれてしまう。
イエスが果たしてどのように応答するか、
その間、まわりの群衆は固唾を呑んで
イエスを見つめていたことだろう。

しかしイエスは黙ったまま地面にしゃがんで何かを書き続けている。

業を煮やした律法学者やパリサイ人らが
再三イエスの返答を催促すると、
イエスはようやく口を開いて言う、
「あなたがたの中で罪のないものが、
まずは最初にこの女に石を投げなさい。」
そしてイエスは再び黙して地面に坐り、
地べたに何かを書き続ける。

罪のないものが、まずは最初に?

イエスの言葉に
律法学者をはじめとして、
そこに居合わせた者らのすべては、
〈逆バインド〉され、
暫しのあいだ凍ったように身じろぎもしなかったに違いないだろう。

息苦しいほどの沈黙が四囲を領したはずである。

だがその凍結した人の壁から、
おのれのからだを〈剥ぎ取る〉ようにして、
まずはひとりの年寄りが(!)その場を離れる。
すると、それが合図であったかのように、
その場の者らは、石を投げることもなく、
一人、また一人と立ち去ってゆく。
そして遂には、
イエスと女の二人だけがその場に残される。

これはなんとも言語に絶する壮絶な言語のドラマだ。

ここでは、群衆の足元や手中にあったすべての石は、
絶体絶命のダブル・バインドを切り抜けるイエスの言葉により、
〈殺す石〉から〈殺さぬ石〉へと
瞬時のうちに「転回」した石だ。

しかしどうして群衆は女を打ち殺そうとしなかったのか?
いちばん最初にその場を離れた年寄りは、ともかくとして?


ひとりの人間を殺すか、殺さぬか、
ーーーーーイエスの口からぽつりと洩れた言葉によって、
劇的・飛躍的に難問化されたこの二者択一が、
彼らの自由な判断に、全面的に、
しかも静かにずっしりと
委ねられたから。

イエスの言葉は、そこに居合わせた者らのすべてを
一挙に彼ら自身へと突き戻した。

彼らを縛る戒律や約束事から彼らを瞬時に素裸にし、
彼らのすべてを個々別々に彼ら自身の内省の淵に臨ませ、
彼ら自身の〈耐えがたい〉自由の前に否応なく引きずり出したのだ。

そして彼らの多くはそのことに恐れをなした。

この場のような〈殺す/殺さぬ〉問題に必ずしも関わらなくとも、
ひとはつねづねあれほどまでに手中にするのを欲していながら、
いざ不意におのれの自由を前にしたとき、
時にはそれに尻込みし、
時にはそれを持て余し、
時にはそれを拒みも
するように。

だが、なぜ群衆は石を投げずに立ち去ったのか?

このことを問う必要が、まださらに、ある。
ここでのイエスの言葉には、
律法学者やパリサイ人が待ち望んでいた
「殺せ」もなければ「殺すな」もない。

投石を禁止する言葉にしても、一言もない。

むしろ、イエスの発言の主旨に沿うなら
「投げなさい」と勧められさえしているほどである。
群衆から女までの、
わずか数メートルの〈殺しの石〉の軌道空間は、
まるでカフカの『掟の門』の扉さながら、
これは〈最終的には〉あなたのものですよといったぐあいに、
群衆の一人ひとりの眼前に
いわば〈過激に〉開け放たれたままだ。

ーーーーー石を投げなさい。

これはイエスの側からの、危険きわまりない賭、
しかし人の強さや弱さへの犀利な洞察に満ち満ちた賭、
心の途方もない読み手だけが初めて為しうる究極の賭。
その場には、面白半分の輩も含めて、
石を手にして「殺せ」の合図を
今か今かと待ち構えている血の気の多い者たちも少なからず居たはずだから、
群衆の判断のばらつき具合、揺れ次第では、
石は何時でも飛び得たはずだ、あるいは、
その場に、『罪と罰』の主人公にも似て、
突き詰めた論理のもとに〈殺し〉を選ぶ人間が居たとしたなら、
石は何時でも飛び得たはずである。

しかし途方もないことにも石はついに飛ばなかった。

そこでのイエスの言葉には、
きわめて厳しい条件がついていたからだ。
「あなた方のなかで罪のないものが」、
しかも「最初に」という、
まさに「ラクダが針の穴を通る」以上に
タイトな隘路が設けられていた。
さらにイエスのそれらの言葉は、
そこに居合わせた者らのあいだに
不意の相互の小心な監視の機構も産み出させたに違いなかった。
その各々が、もしも自分が「最初に」投げれば、
回りの者から「よくもまあ、お前ごときが」と
嘲笑される恐れのあることにすぐにも思い到ったはずであり、
イエスの言葉は、
彼らのあいだに小心な警戒心と保身の意識を行き渡らせつつ、
石と女の数メートルの隔たりそのものを、
ひろびろと開いたままに
破産させたのだ。

ところが、だ。

ところが、日本の或る牧師は、
この時の「ずっと黙したまま地面に何かを書き続ける」イエスの姿を、
「余裕しゃくしゃく」と書いているのである、
いかにも得意満面に、
われらの頼もしいイエス・キリスト様といった調子で、だ。

しかしイエスは恐らくそのとき
「余裕しゃくしゃく」どころではなく、
パリサイ人や姦淫の女も含めた人間たちの
度し難さへの深い悲しみに耐えていただけだ。

とはいうものの、ここでの出来事はなんとも複雑だ。
「最初」の老人はべつにしても、
彼に〈釣られる〉ようにしてその場を離れた者たちは、
「その時」〈キリスト者〉になっていたのか?
なにしと彼らはおのれの「罪」をひとまず恥じて、
女に石を投げなかったのだから?
しかしたんにそれだけでは、
彼らが所謂〈キリスト者〉になっていたかどうかの
判断の決め手にはならない?
イエスのようにその本心から女を「許して」いたのでない限りは?
あるいは、彼らは、付和雷同の、
たんなる烏合の衆として、
その場の大きな人の流れに〈機械的〉に従っただけだったのか?
この場の〈殺す/殺さない〉石については、
ひとつの問いが新しい問いを生み出し続けるばかりである。

ただ・・・・・
ルイス・マンフォードは組織化された人間の大集団を
「メガ・マシーン」と名付けていたが、
国家という名の〈メガ・投石・マシーン〉には
何時まで経っても
投石ごっこを
やめる気配もなし。

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(註)『中世の星の下に』阿部謹也著、ちくま文庫

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「地面すれすれ」


俺たち(?)ニンゲンさんどもは
目覚めるたびごとに
ロープのうえを向う側から歩いてくる
おのれの盲目の分身に
いつでも〈乗っ取り〉されていて
〈モノ〉や〈コト〉らが
〈このように在って他でない〉ことに
何らオドロキもせず生きている。
しかも
その種の〈当然〉に
ひっきりなしに
躓きながら、
-----つまり
カフカがノートに記していたような
破壊的な真実の「ロープ」
-----すなわち
「高い空中」に
ではなく
「地面すれすれに
張り渡された真実のロープ」に
それと知らずに
ひっきりなしに
足をとられながらだ。

言葉Y先生、写真K

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