遅れに遅れて、
LCD SOUNDSYSTEMの最後のライブを見た。
ニューヨークはマディソンスクエアガーデンで行われた一夜限りのスペシャルなライブ。
ネットで中継もされたのだが、
そのとき僕は余震中だった・・・。
ビートルズにも遅れて、ジョイディヴィジョンにも遅れて、
そしてニルヴァーナにも遅れて、
何もかも後追いの僕の世代。
一杯あるのはいいし、何でも手に入ったけれど、
やはり同時代性がなかった。
だからといって何も無いゼロ年代。
そんな風に言われるのは心外だ。
知らないのか。
僕らの世代にはジェイムス・マーフィーが居た。
ジェイムス・マーフィーの音楽を聴いたのはそんな18歳の頃だった。
確か渋谷のシスコレコードで買ったのだった。
自分のと弟のと友達のと、そして自分のと四枚。
レコードの名前は"Losing my edge"(丸くなっちまった)
30も半のおじさんが、
チープなピコピコの電子音の中、
ロックンロールの歴史で起こった全ての出来事を永遠と話し続ける奇想天外なレコード。
どうやらおじさんは歴史の出来事全ての場所に居て、何やらキッズに文句を言っていたらしい。
泣けた。
おっさんの恨み節に泣けた。
大好きなアーティストばかりがでてきて、ダンスもロックンロールも大ヒットのポップレコードも差別しない。
歌詞に出てくる知らないレコードを弟と探しまくった。
幸せ過ぎた。
何度もレコードを聴いては歌詞を聞き取って間違いだらけの綴りのメモを取って、レコード屋へ行っては店員と話しをして、ジャンル別のフロアを行ったり来たり。
昔の人にとってのラジオみたいな物か。
その中で色々な人にあったし、何人かは今でも友達だ。
たった一曲が僕の新たな教科書となり、ジェイムズは僕のヒーローになった。
その当時のジェイムスのインタビューを完全に載せたのは僕の記憶する限り一冊だけだ。
穴が空く程読んだ。
ジェイムスがDJをしに来た時は、
僕にとってはイアンカーティスやジョンレノンやデヴィッドボウイに会う様な物だった。
控えめな人柄のジェイムス。
最高のDJだった。
ニューウェーブ、ハウス、ゲイディスコ、デトロイトテクノ、ヒップホップ、それにパンクロックやガレージロック、プログレからハードロックまで何もかも全部。
そんな滅茶苦茶な音楽を僕は求めていた。
彼のレーベルDFAはレコードを出すタイミングまで完璧だ。
何処かマナーがあるように思える。
あのカミナリマークを探して、
レコード屋やネットでのチェックは欠かさなかった。
それからジェイムスは日本での過小評価など知らず
世界で大きなアーティストへ変化して行った。
二作目はゼロ年代ベスト1のアルバムだろう。
その当時現れたディスコパンクが落ちて行く中、
彼の2作目には歌があった。
電子音のフィーリングが詩情に溢れていて、
何処かアメリカの血を思わせる、
愛に溢れたレコードだった。
そのアルバムを「ディスコパンク」なんていうのは間違っている。
あれは完璧なポップミュージックだ。
ボウイのLOWも目じゃないし、CANのあのアルバムよりも空気に浸透する音楽。
そんなレコードをリアルタイムで聴ける何て、しかもそれをジェイムスがやるなんて、
ああ、僕はもう完璧にジェイムス・マーフィを崇める様になった。
僕は9.11後のニューヨークを変えたのはジェイムス・マーフィーだと思っている。
数々のレコードを再評価させたのもジェームズだと思っている。
そう、VUがいつかに再評価されたみたいに。
彼の存在はタイムラインのある場所に目を向かせた。
行った事も無いのに勝手な事を言っているのは承知。
でも僕にとってはそれぐらい、
「何かが起こっている」と思わせる場所の中心にいる人だった。
それでもバンドは日本では一部以外で評価されなかった。
だからちっとも日本にこなかった。
こないままLCDはイヴサンローランのショーで演奏した。
今度はPeter Gordonのカバーだった。
原曲よりも良かった。
もう無理だろうなと、日本と海外との評価の差に諦めた。
諦めはしたが、更に大好きな方向へ走るDFAのレコードをクラブで聴いてはジェイムスは元気だろうかと考えた。
フジロックには来たがなんか違った。
単独で、それも最低でも2時間はやって欲しかった。
それから単独で来ないまま、
LCDの三作目が出て、解散宣言だった。
残念な事だけど、
完璧なタイミングでリリースするレコードの様に、
やはり完璧なタイミングだったのではないか。
それでもロックンロールサーカスとストップメイキングセンスが合体した様な、クレイジーなライブが観れなかったなんて・・・。
なんとかならぬ物かと。
最後のレコードでジェイムスは家を見つけた。
そう、
若き天才ロックンローラーが何処を探してもみつけられない"Home"をあの結末以外で見つけたのだ。
奇想天外なレコードを作った全部になりたかった男が何もない年代に墓堀をさせ、
ロックンロールの永遠の命題の一つ"Home"をみつけ出した。
僕の知っている限りでは、
それをできたのはキヨシローぐらいのものだ。
"Lucille"のお家を見つけたら、
後はどうなるのか・・・。
でもきっと、
生きる事は素晴らしい事なのだ!
LCD SOUNDSYSTEM最後のライブは約三時間四十分。
何も言えん。
もし、
僕がチケットをもっていたとしてもきっと日本に残っていたであろう。
あの状況で県も国も出る事はできなかったと思う。
負け惜しみと言うなら言えば良い。
でもどっちにしろ観れなかったのだ・・・。
やっぱり負け惜しみくらい言わせて欲しい。
・・・
一体何処の世界に10ccの"I'm not in Love"から始まってYESの"Heart of the Sunrise"に、
最後の一歩手前でHarry Nilssonの"Jump Into the Fire"のカバーをやるバンドがいるんだよ!!!!
解散ライブで泣くロックンロールバンドのフロントマンを僕は初めて見た。
"New York i love you but you're bringing me down"
あの日から世界は変わったのか。
時間とエネルギーの消費と浪費。
色々な物が終わる。
僕の好きだった物や、好きだった事が、
それぞれの人の中で終わる。
そして、
僕らは渦中にいる。
僕は、
そうだな、
ジェイムスが出入りをしていたと言うへんな感じのクラブみたいな、
へんな感じの場所が日本にあってもいい気がする。
でも、デモが国会の前で行われないこの法治国家では難しいだろう。
何か間違った倫理が邪魔をするのだ。
まぁ安全なのはとても良い事だけど。
ああ、しかし福島は在る意味では安全ではない。
しかしこの状況でもおかしな事に、
人は病院へ行くし、交通事故だって起きればつまらない事で転ぶ。
僕のばあちゃんは「コレステロールが」と脂肪に関して敏感になっている。
このへんな感じ、
何処かへ向いていかないかな。
因に僕はジェイムスとは友達ではない。
当たり前の事だけれど。
勝手に仲良さげに呼んでいるが、
会ったら多分「ジェイムスさん」と言うだろう。
「やぁジェイムスさん。僕は余震の中あなたの解散ライブを忘れていた」と。
これはジェイムスへの勝手なラブレターの様な物だ。
「さよなら」とは書いたが、
決してジェイムスは去る訳ではない。
一つの時代が終わったという事だ。
僕らにとっても
ある歴史が終わり、ある歴史を始めなければ行けない。
そのとき僕は、
とんでもなくエキサイティングでクールな場所に居れればいいなと思う。
それが東北だったらどうだろう。
今まで陽の当たらなかった、帰るだけの場所が行く場所になったら。
さて、その4
進むしかないのだ。
"All my Friends"
全部を連れて。
それでは、
カウベルの音は発明だった。
ギターに火をつけてグルグル回してドラムを叩くよりもクールだった。
僕の酷い妄想癖を許して欲しい。
暫くの間、
さよならジェイムス・マーフィー。
心から愛を込めて。