2011年6月4日土曜日

極端な考え方が

地道な活動をしていた人達は、
現状をどんな風に思っているのだろうか?

原発事故で本当に話さなければいけないのはエネルギーの話しで、
それから脱原発へと繋げる事が真っ当だったのだ。
ところが極端な安全と危険のおかげで、
未来に控えるエネルギー問題について真面目に考えていた人達は姿を潜めてしまった様に思われる。
本物の脱原発を目指す人達は何処へ行ってしまったのか?
菅直人を降ろせばそれで変わると思っている人達の様に、
間に在るシステムを無視をして何が変わるのか?
それが安全で安心だと言う。
僕らKenji達は震災以降ずっと話し合って来た。
日本は核の攻撃を受けたにもかかわらず核エネルギーに頼らなければいけないという矛盾。
更にこうして現在もあり渦中にいる。
僕らこそ脱原発を叫びたい。
しかし、まだできない。
何故ならその矛盾の意味を知っているからだ。
物事には順序がある。
やり方は様々だが、順序を追わないから・・・その結果が日本の戦争教育だ。
殆どの人が原子爆弾の事なんて考えようとしない。
原爆は怖い、ただそれだけを教えて来た。
考えようとしないのはわからないからで、それは不安だからだ。
不安になるのが嫌だから、狂乱に身を投じてつまらない金を次々に使って来た。
無い時も同じ様に使って来た。
それが不安に対する最大の抵抗だと勘違いして。
核を落としてしまったという意識から核武装するアメリカと似てる。
落とした方も落とされた方も同じになってしまった。
それが恒久的に染みてしまった。
本当はどちらも恐怖を振り払い向き合うべきなのに。
そんな人達がネットで大騒ぎをしている。
僕は、それで病気になってしまいそうだ。

"わからない事"は安全でも危険でもない。
しかし不安にはなる。
"知るという事"は安全でも危険でもない。
しかし不安にはならないが困難や試練を与える。
どちらも頑張り過ぎたり考えすぎると心労が祟り、
健康に被害を及ぼすのは同じだ。
けれど、
同じく被害を受けるなら僕らは困難や試練の道を選びたい。
それを怠り”僕ら”子供達に教育をしなかった大人の様にはなりたくない。
自分自身の足や目で学ぼうとしなかった大人の様にもなりたくない。
自分の事ばかり考えて今も瓦礫の山がある事を忘れている不安な大人でもいたくない。
個人の意見がレッテルを呼ぶと言う今までの様な社会にはしたくない。
一人一人が様々な意見を言える社会にしなくてはいけない。
それが正しいという社会にしなくてはいけない。
今は麻痺をしている。
麻痺をしているから一つの意見に大勢が加勢している様に見え、
そして加勢している様に感じ、加勢されている様にも思えてしまう。
その中での極端な行動は何か"勇気ある"行動に見えてしまう。
けれど時間が経って麻痺が終わったとき、
レッテルが貼られその行動はカルトになる。
多くの全うな行動と意見を巻き込み全てをカルト扱いにしてしまう。
そしてまた多くは無視だ。不安だから蓋をして無視だ。
その責任は誰が取るのか?
そのとき無視をされた僕らはどうなるのだろうか?
前例が日本にあるのだ。

自分自身の誇りが日本になるという事を絶対に忘れてはいけない。
それが神様のいないこの国の倫理だ。
健康被害が無かったとき、あったとき、
その時にこの島国がまだ日本と呼ばれている事を願う。
僕は今、誰かの為にいつもの生活を提供する人達こそまともだと思う。
それは土地に立つという誇りと言えるからだ。