2011年5月10日火曜日

ロミオとジュリエット

シェイクスピアの言語を演じるには経験が必要だ。
それが人殺しなら、実際に人を殺さなければ演じる事はできない。
シェイクスピアの時代には公的に人殺しがあった。
けれど今は倫理に反するし、
公的な目標は、
殺人ではなく大体がボタン一つで消去の世界だから経験にはならない。
何より誰もシェイクスピアを演じる為に人殺しなんてしないだろう。
だから映画がある。
良い映画は経験になる。
シェイクスピアを読む為に、演じる為に。
シェイクスピアを別の形に変える為に。
そして映画が必要ではなくなる時、
"本物"のシェイクスピアはまったく別の結末を生む。

今福島にはロミオとジュリエットが沢山居る。
放射能を怖がる家族とそうじゃない家族との間で、
恋人達が引き裂かれているのだ。
片方は遠くへ旅立たねばならない、
片方はここへ居なければいけない。
二人は今すぐ一つになりたいが、
残念な事に社会的な経済力や保証は皆無である。
愛がそれを超えるにはあまりにも非力な二人である。
ただシェイクスピアと違うのは、
その家庭は仲が良くも悪くもなかったという事。
抗争などなかったのに見えない悪魔がどうにかしてしまった。

二人の愛は見えないのである。
家族の愛は見えないのである。
隣人との愛は見えないのである。
そして放射線は見えないのである。
放射線の本当の能力は健康被害ではなく、
見えない力で見えない絆を引き裂く毒を出す事である。

最初に書いた通り、
経験してこそシェイクスピアの言語を演じる事ができる。
だからここで既に経験しているロミオとジュリエットには、
シェイクスピアの言語はメタファーとなる。
結末を見つけたり。
その瞬間シェイクスピアはこの時代の新しい何かになる。
最後まで経験する必要はないのである。
シェイクスピアのロミオとジュリエットの最後。
ご存知の通りジュリエットが死んだと勘違いしたロミオは毒を飲んで死に、
目覚めたジュリエットは後を追うのだ。
さぁ、
今ある毒とは、やはり『仮死の毒』ではないか?
それを見極められず熱く怒れたロミオはまったくの馬鹿である。
見極めるには、冷静になる事が大事だ。
シェイクスピアのロミオの様に大立ち回りを演じる必要はない。
経験はある。
シェイクスピアもいる。
あとはどれだけ冷静に放射能と別れを見極められるか。
見極めるだけの知識を得られるか。

ここにいる幾多のロミオとジュリエットが
そしてその家族が
小さな勘違いで間違いを犯さない様にと祈るばかりだ。
その瞬間には映画より書物が必要な事を忘れてはいけない。
経験だけでは悲劇の歴史を追ってしまう事もあるのだ。