2011年5月15日日曜日

安心と安全の神話3//浜岡原発全面停止へ//リスクとメリット

事故があったから「はい止めよう」
そういう流れはまったく嫌になる。
そしてそれをやろうとするのだから意味がわからない。

止めたら安全なのだろうか?
Daiichiは自動停止してこの状態。
冷却機能が失われた訳だが、それを取り戻しても、
冷却から後処理までの時間がどのぐらいかかるのかわかったじゃないか。
しかも4号炉は使用済み核燃料が入っていた訳だ。
しかし使用済みとは名ばかりで、危機的状態を作り出していた。
原発は停止したからといって終わりでも安全でもない。
停止する事が「安心」だけで「安全」ではないとしたら、
まったく僕らの経験は一体何になるのか。
原発を止める事が本当の安全ではない。

今は世界が変わるいいタイミングだ。
原発の限界も見えた。
だから徐々に停止させて行くのはいいことだと思う。
目に見える形での変化は誰もが期待する所だし、
被災地はその世界へ向けて動いている。
けれどその公的な理由が「30年以内に○○%で起こる地震」というのがいただけない。
その「○○%」というのをやめて、
もっとしっかりした根拠や理由を出さないとただのポーズと取られてもおかしくない。
確率は最悪のリスクになるのか?

リスクとメリットについては前に話した通り。
リスクがある時は必ずメリットの話もしなければいけないと。
放射線治療を例に挙げれば、
被爆のリスクよりも治療に関するメリットの方が大きい。
ところが原発事故以降何をするにもリスクの話ばかりでメリットの話が殆どない。
生活における基準値も含めてね。
まるでリスクを補う為に更なるリスクを出している状態だ。
「あのリスクよりこちらのリスクの方が少ない」とね。
本当はそこでメリットと比べるのが普通である。
ところがメリットがない話なのだから、不安になって当然である。

事故前の原発のメリットは何より電気を作り出していた事である。
電気を作り出すメリットの方が放射能のリスクより大きかった訳だ。
それが事故がおきてリスクが目に見えてしまった。
現在進行形の数々の被害でそのリスクは誰しもが知る所。
けれどそのリスクというのは最初から変わらなかったのでは?
本当は事故によってリスクが"見えた"という事である。
それが現実になったか、そうではないかだけでね。
今の今までメリットばかりに目が行って、
リスクを見なかったのは僕らの事じゃないか。
変わらないリスクをまるで増えたかの様に話し、
メリットの話をしないというのは非常におかしい。
じゃあ事故以降のメリットとは?
浜岡原発を止めるメリットとは?
地震が起こるというのが最悪のリスクなら、
最善の事とは一体なんだろうか?

日本にいれば地震が起きる。
アメリカに行けば竜巻が起きる。
そして、
ユッケを食べて食中毒。
前代未聞のとんでもない被害数だ。

ある日実家で鍋を食べていると小さな青虫が浮いていた。
嫌な気分になったが安全に関してはまったく考えなかった。
取り出して捨てて、鍋が美味すぎて忘れた。
その鍋の野菜は近所の農家のおばさんが作った野菜だった。
僕や友人とも仲がいいし、毎日朝早く畑に出ていたのも知っている。
ところが僕はあるお店で何十にもパックしてある食べ物に
ある物が入っていたとき、しかもそれを既に食べていて、
とても不安になってしまった。
僕はそれが何処から来て、何処で加工されていて、誰が調理をしているか知らない。
知っているのはそれを売った人だけである。
知っていると言っても顔や名前程度、
さっき会っただけだから知っているには入らないかもしれない。
例え彼ら一人一人の名前や場所が書いてあっても、
読み方を知れたぐらいでその性格や体質なんてわかりっこないのだ。
わかりっこないけど、
現代に生きていれば食うしかない。
食わないでも生活できる人はごく一部、
金持ちか、自然主義のブランドに取り憑かれ周りを置いていち早く逃げ出した様な人間だろう。
自然食品ばかりを食べていては"田舎"でさえ金も時間も身体も保たない。
家族分の野菜を作るだけでも大変なんだ。
だからマクドナルドがある。
コンビニがある。
だから原発がある。
同じ様に今原発を即刻止めて生活できる人は、
本当に一部の人間だけだ。
鍋に青虫が浮かぶ生活を許容できる、それを安心安全と言える様になるには、
今の現代人には長い時間がかかる。
更にリスクとメリットを出され、
冷静に判断できる人間はとても少ない。
だから無闇な投票をしてしまう。

今僕は「すべての原発全面停止」という極端な話をしている。
けれど実際には徐々に現代生活と原発を減らすバランスをとっていかなければいけない。
長い時間はかかるが、
この震災をきっかけにしなければ次はない。
けれど今回の浜岡原発全面停止の話には、
そういったヴィジョンが何一つ感じられない。
もし浜岡原発が止まって単純に喜んでいる人が多いならそれは大問題だ。
順番がおかしいのだから。
そしてただそれだけの状況が他の原発へ続くなら、
ある機会で原発はまた動き出すかもしれない。
今度はメリットだけの話をされて。
生活や政治のメリットが必要になれば動かさざるを得ない。
当たり前に日本において原発のない現代の生活は非常に難しいからだ。
そうならないと思うならそれでもいい。
だけど、
今同じ事をメリットの話しだけされて古い火力でやろうとしているじゃないか。
火力のリスクの話しは少しもしない。
原発が駄目なら火力。
火力が駄目なら原発。
何度も言うが原発は止めたから終わりではない。安全ではない。
また直ぐに莫大なパワーを出せる所に原発のメリットとリスクがある。
何故新たな道を探さずに、今までのマニュアルを選ぶのか?
それもこれも単純に原発を止めてしまえ
という発想になる単純な人間の無知に他ならない。
もしくは日本人に染み切った終戦以降の負け犬のおかしな幻想だ。
更にそれが政治的にも人の声、金を集める最大の材料になる。
実際に「反原発」と口にした政治家は何人当選したと思う?
投票した人間に明確な考えはあるのか?
いいだろう。
それで誰もが幸せなら。
一度止めたという『マニフェスト』にもかなうし、
ある種の闘争も一度の勝利で満足できる訳だ。
しかしそこで無視されるのは今現在の被害者だ。
更に原発のない新しい未来へ向けて動いていた真摯な人間はどうなる?
震災と原発事故が起きたのに、
ユッケ事件まで起こしてしまう日本の体質。
この状況で目に見える物だけを変えようとする。
目に見える変化は被災地だけで良い。
被災地以外に必要なのは原発をいきなり止める事じゃなく、
原発を止める為に生活や考え方、倫理のあり方を問い正す事だ。
それを国が主導でやる事だ。
じゃないと被災地が目に見えて変わった時にバランスがとれないし、
やはりこのまま原発が存在し続けるのは非常に不安である。
僕らだって原発に頼らない未来へ行きたい。
でも早足を踏んで、
何も変わらない未来はもっと不安である。
そう、
事故以降のメリットはほぼ搾取されている物の中の安心と安全である。
そのメリットとリスクを冷静にはかれるなら、
僕らの未来は明るいだろう。