2011年4月30日土曜日

Sympathy for Fukushima daiichi

どうにか原発に『お疲れさま』という関係にはなれないのだろうか。
『事故』→『即刻廃止』
この流れや意識はどう考えても不純だ。
雑誌を見て物に飛びつく連中と一緒じゃないか。
短絡的過ぎるよ。
そこにあって今度は誰が悪いとか止めさせろとか・・・。
僕らの気持ち知ってる?
「何もかも後にしろ!!」だ。

成長期。
原発以外の選択肢ってあったの?
それで僕らは必死に働けたんだよ。
色々なところに行けたし、色々な事ができた。
あったとして、
今更言ったって遅いじゃないか。
大体、僕は生まれてもいないし関係もない。
それが言っているんだ『お疲れさま』という関係になれないのか?って。
原発がさ「ああ、こんなに頑張ったのにな」って思っていたらどうする?
可愛そうだろ。
それがなんだ、
よってたかって原発をいじめやがって。
言っておくけどKenji達は自分を苦しめる相手でも、
その他の多数に苦しめられてるなら敵でも手を差し伸べるよ。
それが生きていても、そうじゃない機械でも。
反社会的でもね。
目に見えないのは放射性物質だけじゃない。
これだけ僕らは頼っていたんだ。
止まるその時に『お疲れさま』って言ってあげたいじゃないか。

僕らは原発を推進なんかしていない。
恐怖は今このときだって感じてる。
そして何も知らない。
だけど後ろを見ないで、
もっと現実的な方法を取ろうと言っているんだ。
あの地震で、亡くなった人達で、
今も辛い思いをしている人達で、
何もかも帳消しにすれば良い!!
彼らや僕らの苦労や恐怖でもう十分じゃないか。
そんな毎日でも、
ここには国の事なんて良くわからないで、
一番近くの人達に届けようと頑張っている人達がいるんだよ。
それで十分だろ。

チクショー
果てに来たんじゃなかったのかよ。
これが果てじゃなかったら次に一体何が起こるって言うんだ?
これを果てにしないなら、
人間の倫理何て知れたもんだったんだ。
けれど僕らKenji達は違う。
誰も選ばない、誰も見た事の無い道を選ぶ。
例え僕らが汚染されていようが関係ないね。
それで死ねるなら明日は明るいさ。
それの何が悪いのだろう。
その代理戦争や憧れだけの闘争に比べて、
何が悪いのだろう。
身近な死を忘れない事は、
死を畏れない事だ。
短くも長くも僕らはまだ残されているんだから。

不安になった方が、
正確な情報を得られる世の中なんて、
ここにきてどうかしてるよ。
真摯には冷静な知識や判断が、
正確な情報を"選ぶ"んじゃないか。
最初から選択肢が『不安』だけなんてさ。

とにかく。
現場の僕らを無視して、
簡単に止めろとか、辞めろとかやめてくれ。
そういう人らはいつも本当の被害者を無視してる。
何もかも後にしろ!
自分の良心に聞いてみろよ!
その考えは今必要なのか?って。