小学生の頃行ってはいけない所があった。
先生にとても見難い大人が読む様な地図を渡され、
「地図の印がついてあるところには行ってはいけません」と言われた。
地図と言えば子供にとっては冒険へ出る最高のアイテムである。
それを渡されたからにはいつもの公園でぐるぐるしている理由はなかった。
不思議な事に大人はそこへ行ってはいけない理由を話してくれなかった。
僕の場合は母はあの調子だったから「何があるんだろうねぇ?」だったし、
ばあちゃんは「冒険は5時までと決まってる」と冒険を許している感じだった。
父親は仕事、じいちゃんは僕と似た様なもんで思考の冒険をしていた。
友達の間で噂が出る。
「一回落ちたら上って来れない沼があるんだって」
「お堀に男の子が落ちて死んだんだって」
「山道に野犬がでるんだって」
うそだろぉ・・・わくわくするじゃないか。
そういう訳でまずは沼に向かってみた。
そこではおじさんと不良が釣りをしていたのだった。
正直不良の方が怖いぐらいだったので、
こそこそ逃げようとしたがすぐに見つかってしまった。
「馬鹿じゃねーの?ここにはブラックバスがいるんだよ。
お前らはオイカワでも釣ってろよ!!!」
友達は頭にミミズを乗っけられ、僕はケツを蹴られ(本当に痛かった)、
また友達はコーラを買いに行かされた。
別の友達は自転車を沼に沈められるところであった。
けれどブラックバスの情報はかなり嬉しかった。
ブラックバスと言えば都会の魚であるから、
僕らにはとても珍しかったのだ。
沼に関してはおじさんが言うところによると、
以前農家の息子がここに落ちて溺れたらしい。
やはり子供一人では危険なポイントであった。
そう、
僕はそのとき居た不良の後輩にあたる連中と後にそこに来る事になり、
雷魚を釣る事になるのであった。
男の子が落ちて死んだというお堀にも行ってみた。
そこは何処かのお大臣様の家かと言うぐらい立派で、
皇居の様に住居の周りにお堀があった。
危険なんて考えられないほど美しく、なんと立派な鯉まで泳いでいた。
後に来た時林に隠れながら長いへらざおで鯉を釣ろうかとトライしてみたが、
結局住民に見つかって先生に怒られた。
先生に「あんな奇麗なところで溺れたり死んだりする事はないと思いますよ」と言ってみたのだが、先生は何を言っているのか分からない様子だった。
最後に野犬。
本当にいた。
真っ黒なドーベルマンみたいなやつ。
秋の夕方五時頃山に入った道の行き止まりまでじりじりと追い詰められた。
本当に怖い時は声もでない事を学んだ。
ところが行き止まりでその野犬は去って行った。
下へ降りると犬は消えていたのである。
その後犬はそのとき一緒に居たAの友達であるBの犬だという事が判明した。
そういえばAはどこかの家で犬と遊んでいると聞いていたし、
家はその山の近くであった。
なのにAは一緒になって震えていて落ちている枝まで投げていた。
初めて人間を軽蔑した瞬間である。
しかもその場所は危険ポイントでもなんでもなくて、誰かが「行こう」と言ったばかりに、盛り上がって勝手に危険ポイントになっていた始末である。
何故何もかもに気付かなかったのかわからない。
けれど僕らは逃げている最中に犬に向かって枝とか葉っぱは投げていたが、
石は投げなかった。
その理由は今でもわからないが、
犬は最初からAと遊びたかっただけだったのかもしれない。
それとこれとは違うかもしれないが、
公園の使用が制限されてしまった。
一時的な物である事を願うばかりである。
しかし子供は「行くな」というと行きたくなるのである。
理由を教えないと、その想像力で様々な理由を作るのである。
放射能以外にも子供にとって危険なところは沢山ある。
けれど僕の経験ではそこで怪我をしたとか、
亡くなったとかと聞いた事がない。
むしろ僕の世代で死んだ人間は無茶からの死、自殺だ。
本当に多かった。
放射線の影響は確かに子供に強くある。
成長が仇となって取り込んでしまうのだ。
その結果は僕が知る所によると、単純な興味の範囲でだが、
やはりとても辛い事実が現在まで、そしてこれからも多くある。
だからと言ってただ単純な不安は子供の予想外の行動を助長させる。
中には「お前行けないなんて弱虫だなぁ」
なんていう馬鹿なやつだっているかもしれない。
今は携帯電話もあるから
真実味を帯びただけのデマ等を簡単に信じてしまい易い。
それが逆の方向に向いた時が一番危惧する事で、
いじめの原因にもなるのではないか。
だから何故子供が取り込みやすく、
同じレベルの前例であるチェルノブイリの子供達との違いについて、
子供を持つ親は学ばなければ行けない。
学校の親に向けた勉強会だけでの理解では足りない。
本当に細かいレベルでの理解が必要だ。
大変な事態ではあるが、
この出来事は子供へ本当の道徳を教える良い機会である。
学べばこそ見えてくる理解や言葉は真摯であるから、
あの強い震災を『経験』した子供には伝わるはずである。
そしてそれが「本当の危険」だったとしたら子供はそこへは行かない。
果たして今公園で起きている事は「本当の危険」であるか?
それを本当に知ったとき、大人は子供の無垢さに気付くのではないかと思う。