会津に行った日、
ある酒屋で父親の知り合いに会った。
年は40代後半で父親と同じ世代。
代々続く正真正銘の江戸っ子だ。
僕はそのオヤジに子供の頃から「坊主」呼ばわりされる。
その時も「坊主やってるか?相変わらず痩せてんなぁ。本当に(お前の)親父の息子かよ!」
と言って僕の頭をポンポン叩くのだ。
「うるせーぞ、俺を坊主呼ばわりすんじゃねぇ!」
というのがいつものやり取りになっている。
本物の江戸っ子は田舎者とあまり変わりがない。
見識が狭くて一方通行なところなんてそっくりだ。
しかも他の意見を大体にして自分より下に見ている。
江戸っ子に憧れる都会人は沢山いるが、
その殆どが何か間違っているとその人や僕の父親は言う。
本物の江戸っ子は焼け野原を知っている。
一面の田んぼを知っている。
そしてそこからどんどん空が埋め尽くされる過程も知っている。
だから土地への愛憎は半端じゃない。
自分がどこから来たか知っているのだ。
その子孫はその事を身体と態度で学んでいる。
小津や成瀬の映画なんかを見ると殆ど田舎だ。
言葉もなまりと言うか、あか抜けていない。
震災や放射能があっても、
その僕の知っている江戸っ子連中は
何ら変わりなく僕らに接してくれた。
変わらず会津へやってきては酒を買って行く。
中途半端にローカルでいる事は、
狭い見識を持つ原因になるが、
本物のローカルはどんな相手でも倫理を試される時完全に理解しようとする。
それは狭いという言葉が多様性を持つ瞬間だ。
そこでずかずか入ってくるけど彼らは裸足なのだ。
最初から靴なんて履いていない。
靴以外は完璧なのに
靴を履く事が馴染まないところはやっぱりあか抜けていない。
最終的には裸足が良いという原始的な考え。
『大地』に触れていたいのであろうか。
そこはやはりカッコいい。
「リタイヤしたら田舎で自給自足の生活」
なんて言ってた人達より(おーい?何処いった?)
普段は下町観光に来る田舎者や外国人を
内心馬鹿にしていた人たちの方が、
こんな時とても親身だったりするんだよね。
色々な人がいるけれど、表面の態度や言葉だけじゃなく、
本物を見極めないとその優しさを無下にしてしまう事になる。
だからここは先ず福島の酒を裸足で飲んで、
大地の味を知って欲しいと思う。
その味は大地が続く限り日本の味なのだから。