2011年4月30日土曜日

東京生まれ東京育ち

会津に行った日、
ある酒屋で父親の知り合いに会った。
年は40代後半で父親と同じ世代。
代々続く正真正銘の江戸っ子だ。
僕はそのオヤジに子供の頃から「坊主」呼ばわりされる。
その時も「坊主やってるか?相変わらず痩せてんなぁ。本当に(お前の)親父の息子かよ!」
と言って僕の頭をポンポン叩くのだ。
「うるせーぞ、俺を坊主呼ばわりすんじゃねぇ!」
というのがいつものやり取りになっている。
本物の江戸っ子は田舎者とあまり変わりがない。
見識が狭くて一方通行なところなんてそっくりだ。
しかも他の意見を大体にして自分より下に見ている。
江戸っ子に憧れる都会人は沢山いるが、
その殆どが何か間違っているとその人や僕の父親は言う。
本物の江戸っ子は焼け野原を知っている。
一面の田んぼを知っている。
そしてそこからどんどん空が埋め尽くされる過程も知っている。
だから土地への愛憎は半端じゃない。
自分がどこから来たか知っているのだ。
その子孫はその事を身体と態度で学んでいる。
小津や成瀬の映画なんかを見ると殆ど田舎だ。
言葉もなまりと言うか、あか抜けていない。

震災や放射能があっても、
その僕の知っている江戸っ子連中は
何ら変わりなく僕らに接してくれた。
変わらず会津へやってきては酒を買って行く。
中途半端にローカルでいる事は、
狭い見識を持つ原因になるが、
本物のローカルはどんな相手でも倫理を試される時完全に理解しようとする。
それは狭いという言葉が多様性を持つ瞬間だ。
そこでずかずか入ってくるけど彼らは裸足なのだ。
最初から靴なんて履いていない。
靴以外は完璧なのに
靴を履く事が馴染まないところはやっぱりあか抜けていない。
最終的には裸足が良いという原始的な考え。
『大地』に触れていたいのであろうか。
そこはやはりカッコいい。

「リタイヤしたら田舎で自給自足の生活」
なんて言ってた人達より(おーい?何処いった?)
普段は下町観光に来る田舎者や外国人を
内心馬鹿にしていた人たちの方が、
こんな時とても親身だったりするんだよね。
色々な人がいるけれど、表面の態度や言葉だけじゃなく、
本物を見極めないとその優しさを無下にしてしまう事になる。

だからここは先ず福島の酒を裸足で飲んで、
大地の味を知って欲しいと思う。
その味は大地が続く限り日本の味なのだから。