2011年8月22日月曜日

「試験的な存在?」

---ボワロー:「私は猫のことは猫と呼ぶ」---
『カラマゾフの兄弟』では
大審問官の口からこんな言葉が飛び出してくる
・・・・「自分で作ったパンでさえ
ろくすっぽ満足に分かち合えない」
俺たち(?)雑駁なニンゲンどもは
要するに
「自由に耐えられない奴ら」
さらに幾らか謎めいたかたちで
「単に試験的な存在でしかない」等々と・・・・・

「自由に耐えられない奴ら」?

十七世紀フランスのボワローが
もろに「私は猫を猫と呼ぶ」と語ったコードを踏まえて云うなら
「猫を猫と呼ばない」ことが
俺たち(?)粗雑な生きものの「自己植民地化」の始まりだろうから
大審問官の〈猫は猫発言〉には
まったく文句なし

けれど「試験的な存在」とは一体何のこと?

「試験的」というからには
ニンゲンさんが試験が好きで
自然観察や人間分析等も含めて
テストをやたらに繰り返し
ガラクタの山を築くことを指しているのか?

ぜんぜん違うな・・・・・

此処でまたまた
いつもながらの
どえらい誤読を再演するなら
同じ『カラマゾフ』のなかで
「聖者であるのにも拘わらず死後に腐臭を放った」
ということで
若いアリヨーシャに「驚かれて」しまうゾシマ長老が
その生前に「人間は腐敗の原料です」と
これまたモロに「猫は猫だ」と云っていた通り
「試験的な存在」とは
「原料ども」が
存続する価値があるか無いかを
〈試されている〉ことに就いての話
とどのつまりは
価値が無ければ
巨大な不可視の手で
消されるだけだという話
さらには
ロシアのシニヤフスキーが
「人類は自らを滅ぼすに至るまでは進歩する」と記していたように
「猫は猫だ」と呼ばないままの
俺たち(?)「原料ども」の
さらなる〈原料化〉による
自滅も含めてだ

言葉Y先生、写真K