2011年8月29日月曜日
2011年8月28日日曜日
「新しい天使」
(パウル・クレー「新しい天使」)
ナチの秘密警察に執拗に追われながら
パリでのアパートを目まぐるしく住み替えていた
批評家ヴァルター・ベンヤミン
ついにはスペイン国境で行く手を阻まれ服毒自殺?
しかしその間彼が片時たりとも身辺から離さなかった
小さな絵があるーーー
パウル・クレーの「新しい天使」
ーーーその複製を改めて眺めてみると
鼻梁は太く逞しく
眼は始原から終末を見わたすようにギロリと動き
すこし開いた唇から覗いている歯はいかにも鋭く
豊かにうねる頭髪からして
さながら獅子のよう
これは従来の天使と違い
神と獣の境界にいる新しいタイプの堕天使
ただ単一に悲劇的ではなく
シュルレアリストが愛好していた
ミノタウロス(ギリシア神話の、頭が牛で体が人の半獣神)の
諧謔性の血をひくかたわら
俺たちジンルイの
誤配だらけの歴史=物語を塗り変える
グノーシス的な隠れた神の眼光をも
引き継いでいる天使
神秘と諧謔?
というのも
実際には死んでいながら
おのれの死を自覚しない現代性(モデルニテ)の
〈死後の賑わい〉を
〈そのとおりに〉映す鏡になることほど
諧謔精神の肥やしになることはざらには無かろうし
「強風」に翼がお手上げ状態になりながらも
この世界との幾何学的な意味合いでの
〈捻じれ〉のコードの彼方にしか
救いを見出すことのない天使ほど
アマデウスの歌劇『魔笛』のなかでも響きわたっている
隠れた神の顕現に見合うものも
またと無いだろうから
しかし
この種の「新しい天使」は
いつでも〈余所者〉〈はぐれ者〉?
ちなみに
「新しい理性」の到来を描いたランボー
ーーーその「理性」もまた
クレーの天使と同じように
天国からの進歩という強風に煽られて
未来の廃墟に吹き飛ばされながら
おのれと周りの世界との
ガタピシ具合を
吐き捨てるように嘆いていたけれど:
ーーー「感じやすさが原因で
俺は一生を棒に振った」と。
言葉Y先生
2011年8月27日土曜日
福島県における道路の通行規制
福島県内には地震による道路の陥没や
津波の被害による通行止め箇所が現在、
国道11箇所
県道52箇所
この中には警戒区域による立入禁止区域の道路も含まれる
規制される時期は「当面の間」というものが殆ど
そんな中でも県道いわき石川線が9月中旬にも全線開通する
詳細
2011年8月26日金曜日
2011年8月24日水曜日
2011年8月23日火曜日
福島の灯籠//京都の送り火
今年は灯籠は流されなかった
「川が放射性物質で汚染されてはいないか」という理由だ
疑問としては妥当だし灯籠を回収する
ボランティアスタッフの方が不安におもうのも仕方ない
あの「川」が「汚染」されている...?
...どうしても違和感がある
「汚染」という言葉が適当かはわからないが
あそこの川が「綺麗」だとはおもわない
しかしそれは震災以前でもおなじことで
一体なにが流れていてどんな細菌や汚物が混じっているのか
まるで見当もつかないし
あやまって水を飲み込んだらすぐにでも吐き出したい...
「伝統行事なのだから今年もやるべきだった」と言うわけではい
京都の送り火
「専門家から〈安全〉と云われても信用できない」?
そもそも何かを「信じるチカラ」を持っているのだろうか
「専門家」以外の誰に云われれば「信用」できるの?
「実行されればもう京都には旅行にいかない」?
子供からのクレームだろうか
いや子供を馬鹿にしてはいけない
また本当に京都を好きな人は何がまき散らされようが
「もう行かない」とは言わないはず
「京都のイメージダウンだ」?
完全にいろんなものが馬鹿にされている
結局、陸前高田の薪は使用されなかったわけだけど
あんなに大量の「安全」な又は「健康に影響がない」薪を使って出る
CO2にみんな無関心なのはどういうことだろう
「あれくらいの薪を燃やして出るCO2は温暖化に影響はない」
それは信じるのかい
いや...これはお得意のダンマリか...
2011年8月22日月曜日
「試験的な存在?」
---ボワロー:「私は猫のことは猫と呼ぶ」---
『カラマゾフの兄弟』では
大審問官の口からこんな言葉が飛び出してくる
・・・・「自分で作ったパンでさえ
ろくすっぽ満足に分かち合えない」
俺たち(?)雑駁なニンゲンどもは
要するに
「自由に耐えられない奴ら」
さらに幾らか謎めいたかたちで
「単に試験的な存在でしかない」等々と・・・・・
「自由に耐えられない奴ら」?
十七世紀フランスのボワローが
もろに「私は猫を猫と呼ぶ」と語ったコードを踏まえて云うなら
「猫を猫と呼ばない」ことが
俺たち(?)粗雑な生きものの「自己植民地化」の始まりだろうから
大審問官の〈猫は猫発言〉には
まったく文句なし
けれど「試験的な存在」とは一体何のこと?
「試験的」というからには
ニンゲンさんが試験が好きで
自然観察や人間分析等も含めて
テストをやたらに繰り返し
ガラクタの山を築くことを指しているのか?
ぜんぜん違うな・・・・・
此処でまたまた
いつもながらの
どえらい誤読を再演するなら
同じ『カラマゾフ』のなかで
「聖者であるのにも拘わらず死後に腐臭を放った」
ということで
若いアリヨーシャに「驚かれて」しまうゾシマ長老が
その生前に「人間は腐敗の原料です」と
これまたモロに「猫は猫だ」と云っていた通り
「試験的な存在」とは
「原料ども」が
存続する価値があるか無いかを
〈試されている〉ことに就いての話
とどのつまりは
価値が無ければ
巨大な不可視の手で
消されるだけだという話
さらには
ロシアのシニヤフスキーが
「人類は自らを滅ぼすに至るまでは進歩する」と記していたように
「猫は猫だ」と呼ばないままの
俺たち(?)「原料ども」の
さらなる〈原料化〉による
自滅も含めてだ
言葉Y先生、写真K
2011年8月21日日曜日
2011年8月20日土曜日
2011年8月19日金曜日
2011年8月18日木曜日
大内宿へ//Fukushima Ouchijyuku Everywhere
2011年8月17日水曜日
2011年8月16日火曜日
「ランダムなもの」
ランダムなもの?
それは凍結した人のココロを
やんわりとほぐしてくれるか?
ランダムなものは、まさに法則の欠落や、
意味の連なりの「極薄状態(アンフラマンス)」や断裂等により、
人を安らぎに導くどころか、
名状しがたい不安や混乱に陥れたりするのではないか?
しかし、たとえば、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の冒頭での
彼の驚きと笑いと困惑についての記述---すなわち
ボルヘスのテクストに引用されていた『シナのある百科事典』の
動物の分類表に彼が初めて接した時の
大きな衝撃についての記述によると
事はけっこう〈恐慌=喜劇〉にもなる。
その『事典』には
フーコーならずとも
これが果たして動物の分類表かと
誰しもが自分の目を思わずこする
驚くべき「動物名(?)」
が列記されている
「動物は次のごとくに分類される。(a)皇帝に属するもの、
(b)香の匂いを放つもの、(c)飼い慣らされたもの、(d)乳呑み豚、
(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、
(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、
(j)数え切れないもの、(k)ラクダの毛の極細の毛筆で描かれたもの、
(l)それら以外のもの、(m)今しがた壺を壊したもの、
(n)遠くから蠅のように見えるもの。」
これを一覧したかぎり
いったい誰が笑いださずにいられるだろうか?
ここでは、「分類」は「皇帝に属するもの」といったぐあいに
いかにも荘重に始まりはする。だが、それは
ただ単に始まっただけのことに過ぎず、
その意味=方向は発端からしてひとつの〈暴発〉、
その先行きは茫漠たるものだ
そして発端がこれほどまでに不分明なものであるなら、
あとは雪崩打つかのようにして、
蓋然的なものや、
恣意的なものや、
極度に特殊・ 個別的なものや、
薮から棒に〈今しがた目先で起きた事柄〉へと
「分類」は〈散乱〉してゆき
「列挙を支える(接続詞の)《と》を崩壊
(フーコー)させつつ
ついには「人魚」という絵空事のものまで
ことも無げに
おおらかに併せ呑んでゆく。
これはラブレーのガルガンチュアも青ざめかねない
凄まじいランダム性の饗宴での大食行為(グルマンディーズ)だ。
しかも そのうちの一項目には、
言うべき言葉を欠いてのことか、
なんと「それら以外のもの」という「動物」が
分類・表記されているのである!
ならば、ことのついでに、その「表」に、
ボルヘスの『幻獣辞典』に登場する獣たちや、
カフカの糸巻き状の奇怪な生き物「オドラデク」や
犬と羊と猫を混ぜ合わせた「雑種」のペットを挟んでみても、
何らの違和感もありはしないだろう。
フーコーはこの種の分類を
「混在郷(heterotopie)」と名付けているのだが、
そこには西欧の伝統的な分類法では
想像さえし得なかったランダム性が
あっけらかんとのし歩いており
それがフーコーの西欧的な「思考」のシステムを根底から揺るがし
彼の驚愕と哄笑と困惑をいちどきに引きずり出したのだ
だがこの種の可笑しさや混乱には、
作為と無作為の違いがあるが、
東京駅での年毎度の「遺失物一覧表」(公表は既に廃止)の
途方もないランダム性も〈負けて〉はいない!
そこでは膨大な数の人々が、
ほとんど悪無限的に毎日毎日〈勤勉〉に置き忘れてゆく
傘や財布の山はともかくとして、
その品目が稀少なものになるのに応じて、
そこにはフランスの詩人ロートレアモンの
「こうもり傘とミシンがその上で不意に出会う手術台」や、
ダダイズムのランダム性も〈途端に顔負け〉の
なぜ置き忘れるのかが不可解な事物の名前が
互いにそっぽを向いたまま
隣り合っている、
つまり、
がんらい〈共通の場所(=フランス語では「紋切型」の意あり)〉を
いささかなりとも持たなかった〈もの〉たちの名が
東京駅の遺失物係の「一覧表」という
にぎやかな共同墓地で
唐突に鉢合わせさせられ
コンテキスト以前のコンテキストの途方もない〈現前性〉が
恐るべき光芒をおびて人の驚きや哄笑を誘いだすのである。
「籠に入った蝮六匹
総入れ歯
合唱大会の優勝旗
義足
忍者用の装束一式
西欧中世騎士社会の貞操帯
小指の瓶詰め
腰掛け用の象の足
かつら
国会議員当選証書・・・etc.・・・etc.」
わっは、
これらの忘れ物たちをネタにいろいろと想像させられるし
「 小指の瓶詰め」というのは
何だかちびっとコワイ感じだが
世界の中でももっともおぞましい駅の一つの東京駅でも
それとは〈知らずに〉
幾らかガンバッテ〈笑わせて〉くれているのか?
(註)「極薄状態」・・・マルセル・デュシャンの造語。
ちなみに「極薄状態」とは、眼差しが一瞬交わって逸れるとき、その交換は超薄的。
「物は愛でられ見つめられる程、超薄さを失う」、「蜘蛛の巣は超薄さの残骸である」、
「煙草の煙と、それを吐く口の匂いが同じときに、二つの匂いは超薄さで結びつく」、
「硝子のうえの絵は描かれない面から見るとき超薄的。」等々・・・・
言葉Y先生、写真K
2011年8月14日日曜日
「ウンコの練習だよ」
私にとっていまでも強烈に頭に残っている言葉である
これは小学生の頃に友人が学校のトイレで放った台詞だ
ご存知の通り学校のトイレでウンコをするということは
とても勇気がいることであり、ややもすれば身の破滅を招く行為である
私が当時トイレの個室に入った友人を面白がって
ドアをノックし「おまえウンコだろ」と問い詰めたときに
彼が大声で「違う。ウンコの練習だよ」と返したのだ
息ができないほど笑った
そんな彼と昔話をしているとお互いが通っていた小学校の話題になった
「最近、小学校の前を通ったら表土除去しててさ」
福島の学校では現在夏休みを利用して汚染された表土の除去をしている
「学校と同じ大きさ位のどでかい土...あれはゴジラのウンコだな」
「なるほどゴジラは放射能の影響で偶然に生まれたモンスターだから
ゴジラの糞尿が放射性物質を含んでいても不思議ではないね」
「笑うところなんだけど」
「おまえの作為的でまわりくどいジョークはちっとも面白くない」
「...ウンコで笑えなくなったら人間おしまいだぞ」
「ウンコそれ自体は面白いものじゃないだろ」
「えっ、ウンコをジッと見てれば笑えてくるだろ」
「ウンコをジッと見てたら気持ち悪くなるよ」
こんな下品な会話を彼の殺風景な部屋でしていた
上の写真は彼の引っ越しの荷物を積んだトラックが去っていく時のもの
「やりたいことがみつかった」そうだ
頑張って欲しい
2011年8月13日土曜日
2011年8月12日金曜日
四倉へ//Fukushima Yotsukura Everywhere
8月11日
四倉の海岸を1時間ほどかけて歩いた
何度か訪れている場所だけどゆっくり歩いたのは初めてのこと
被害を受けた家屋が静かに佇んでいる横で
海は眩しい光を放ち生き生きと動いている
その間をキツい日差しのもと汗をかきながらトボトボ歩いていると
徐々に心臓の鼓動が早くなってきた
水分を取りながら気をつけてはいたもののどうやら
熱中症になってしまったようだった
フラついていると散歩中のオジサンに「大丈夫」と声をかけられた
「大丈夫?」と聞かれると「大丈夫」と返してしまう
なんとか車に戻りコンビニで熱さまシートと栄養ドリンクを買って
心臓の鼓動が落ち着くまで休んだ
その後も足のしびれが残るなか慎重に歩を進め写真を撮ったが
行動範囲が狭く予定よりも写真の枚数がずっと少ない
なんて様なのだろうと己を笑いながら
そもそも何故に写真を撮るのか自問する
そして豊間の防波堤に腰をおろし時間がくるのを待つ
間もなく親戚が砂浜に降りて行き静かに手をあわせ祈りはじめた
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