2011年4月24日日曜日

「メディア論」

カフカの短編「皇帝の綸旨」では
臨終間際の皇帝が一人の使者を枕元に招きよせ
きわめて〈重要らしい〉メッセージをその耳元に囁きかける
おのれのメッセージが使者に正しく伝わったかどうかを確認するため
皇帝は使者にその言葉をひとまず耳元で復唱させ、
それに間違いのないことが分かると
いざ行くべし!と幽かに頷く

使者は
皇帝の命を憂えて四方の大広間の壁まで壊してびっしり詰めかけた
大勢の貴顕や家臣たちの間を抜けて
綸旨の宛先へと韋駄天走りに疾駆し始める

まずは豪華絢爛の広間を抜けると
更なる豪奢の限りを尽くした大広間が続き
広間から広間への疾走が延々と続いたあとに、
またまた広間 またまたまた広間
それに数日か数千年かを費やしはしたものの
更に広大な庭園が眼路の彼方へ霞をたたえて縹緲と広がっており
使者はどれほど走ってもその宮殿の庭園から抜け出すことがない

しかもその宛先では
正体不明の人物が皇帝の綸旨が手元に届くのを待っているのだが
綸旨はその人物に決して届くことがない

うーむ

この物語でカフカは何を語ろうとしているのか?

T.S.エリオットの「うつろな頭」の〈私(何者?)〉による
どえらい誤読では
人や事物をお構いなしに跨ぎ越しながら走り続ける使者の姿は
「舞踏する星」というイメージに戸惑うだけの
「最後の人間たち(ニーチェ)」の日々の営みの姿でもあり
その姿・形は籠の中での小さな小さな水車のなかを
何処かへたどり着くということもなく
チョロチョロと走り続ける二十日鼠の姿に重なる

ちなみにイワン・イリチ派の社会学者が
「医学は人を病気にし
教育は人を馬鹿者にし
メディアは何も伝えないし
交通は届けるべき所へ何も届けない」と書いていたけれど
彼のいう「メディア」と同じく
カフカが放ったメッセンジャーの話は
メッセージというものの本質が
「次から次への耳打ち遊びと同じように」
〈決してきちんと届かない〉ということを語っているのだよ

歴史は誤配の強靭な連鎖でもあるし

そしてこの種の誤配や宛先不明や非到達
さらには
一億総出の細かいちびちびの失禁や
一億総逃げのパンツの中での大糞垂れや
一億総縦並びの〈一昨日来い〉の寸足らずや
一億総横並びの場外までのオーバーランは
如何なる時代のメディアに就いても云えることだし
〈私(何者?)〉のどえらい誤読を更に足すなら
カフカの使者の物語では
皇帝は口をただ単にモゾモゾと動かしただけのことであり
使者には
実は
何事も
耳打ちしていなかったのかも知れないのだなぁ

言葉Y先生、写真K