今は昔の「輪」の物語
であるのと同時に
昔も今もの「輪」の物語・・・・
・・・・・人がごたごた集まると
何処の馬の骨だか分からない〈私〉の骨が
何処のロバの骨だか
もっと分からない〈私〉の骨に追突されて
その事故処理に手間取っているあいだにも
あちらこちらでまたたくうちに「輪」ができあがり
トゲトゲだらけの掟がわんさか作られる
アリストテレスはそうした奴ら(すなわち俺たち)のことを
「二本足の獣」と名づけていたけれど
奴ら(すなわち俺たち)のうちでも
「掟の門前」で尻尾を出来るだけ速く振るため
それを短く切りつめる奴がいるかと思うと
そうしたことがまったく下手くそで
世界の外なら何処へでもおのれ自身を吐き出し続ける
「そっぽ向いたオットセイ」が出たりなどもする
すると?
「輪」から抜け出た奴に向けて
かならず
バラバラと石が飛ぶ
「輪」からそいつに石が飛ぶのは
〈自由からの逃走〉からの〈逃走〉を
奴が「最初」に
しかも、
いかにも楽しそうにやってのけたから
奴はひとりの〈エクス・トラ〉となり、
「輪」の〈神聖〉な境を跨いで、
自由というものに〈耐えながら〉駆けずりまわり、
「共通性なき共同体」とはまったくべつの
〈余りにも共通的な共同体〉の『自由からの逃走』からの逃走願望を
〈醜聞的に、つまり語源的には躓きの石的に〉に体現し
おのれの本意から眼を逸らせていた二本足の獣らを
もろに彼らの〈鏡〉に対面させてしまったから
〈ことの次第〉がそうであるなら、
「石」はどんな口実ででも飛ぶ
奴がたかだかじぐざぐに走っただけでも、
挙動不審の名のもとに「石」はやはり飛ぶ
つまり
「輪」のなかの潜在的な〈自由からの逃走からの逃走願望〉が石を投げるし
「輪」のなかの鏡によって映し出された自己への欺瞞が石を投げるし
「輪」のなかの奇跡と偶像と抑圧を欲しがる頭が石を投げるし
「輪」のなかの共同的な幻想や付和雷同が石を投げるし
「輪」のなかの相互監視や相互不信が石を投げるし
「輪」のなかの青黴だらけの安定志向が石を投げるし
「輪」のなかの予定調和的な断念が石を投げるし
「輪」のなかの人間関係の抽象化が石を投げるし
「輪」のなかの結果的にはおのれの不幸の増殖に
手を貸すだけの「良識」が石を投げるし
さらには
神聖不可侵の境界そのものが石を投げるし
皮膚の色や言葉の違いが相も変わらず石を投げるし
大きな差異よりわずかな差異が
機械の正確さで
狙い違わぬ石を投げつける
大きな差異よりわずかな差異が?
大きな差異を前にしたとき、
ひとはたいてい畏怖するか断念するか無関心を装う以外に
打つ手を持たないから・・・・・・
そこで
この種の昔も今もの「輪」の物語をめぐっての
気配りゼロのスカンクの屁を此処で一発放つとするなら
弱者同士の争いが
手立てを選ぶ知恵も力もゆとりも無い分だけ
いちばん無残酷薄になってしまうのだ
一生斯く鳴って万古疲れるのは真っ平御免だが
「強者を救え」と
『この人を見よ』の狂気の詩人・哲学者が語っていたことに
微塵の狂いもない
(いや、待てよ・・・・・
今は救うに値する強者など居やしないわね。)
言葉Y先生、写真K