イタリアの作家
アルベルト・モラヴィアさんが
ふざけまくっていたわね、
・・・・・神はこの世を遊び半分に創造した、
なぜなら〈彼〉は唯一・絶対であることに
おそろしく「退屈」したため、などなどと。
なるほど
そのあと
遊び飽きられ
完ペキに忘れ去られて
散らかり放題の被造物らのぶつかり具合や
つぶれ具合や
へし折れ具合等々から察するならば
それはあながち的はずれではない。
つまり
その種の品質不問の世界では
生あるものは
いつ
何処で
どのように
〈クタ・バロウ〉とも
神の長大な欠伸から
ただ晴ればれと
解き放たれることになりそうだから。
いや、だが、
待てよ?
「死にしても、
〈この死〉ではない」
などと書いていた何ともフシギな奴がいる。
カフカさんだが、
彼は
〈神の退屈〉によるのではなく
〈神のエラー〉で出来あがった
〈この宇宙〉での〈この死〉を
宇宙もろともに拒んでいたわけだ、・・・・・つまり
この種のデッド・ボールの避け方は
ひるがえっては
〈この種の生〉への
一度刺さると
なかなか抜けない
鈎針めいた問いでもあるだろうから
この私(何者?)も
その問いかけへの歩幅合わせを
足の本数を数え始めて動けなくなったムカデのように
(つまり〈考える〉とは何時でもこうしたものだわさ!)
ぎくしゃく試みる。
ちなみに
オランダの現代作家
C.ノーテボームは
『これから話す物語』において、
「生の最後の一瞬」が
「どんどん長くなって永遠に近づく」という、
時間の変容(メタモルフォーズ)を描いており、
それは恐らくその通りなのであろうが、
さらに
作家は次のようにも書く
「ソクラテスは魂の不滅を
四回も繰り返し証し立てようとしたけれど、
それこそは弱さの印だ。
大切なのは不死そのものではなく、
俺たちが不死について考えられるということだ。
そして、そのことにより
俺たちは幾らか違ったものになる」
ん?
「俺たちは幾らか違ったものになる」?
・・・・・これは幾らか
「考える葦」の
パスカルさんに似ているけれど・・・・・この物語は
カフカの突き刺さったままの問いかけや
彼の「猟師グラッホス」と同様に
〈この死〉を受け容れない人物たちの笑いに溢れ、
それらの笑いは
如何なるドン詰まりの瞬間にでも
余計なことや
的はずれのことを考えてしまう
私たち(誰たち?)人間さんの
アタマの関節の
とめどもない外れ具合を
超音波的に描いたものだろね。
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(註) C.ノーテボーム:2003年度オーストリア・ヨーロッパ文学賞受賞
言葉Y先生、写真K