2013年1月24日木曜日

希望のドラマ

『震災や事故を受けても頑張っている』という福島に
誇り(自分)を見つけたかの様な言説は
時間が経ってより一層本来の自分たちを苦しめる形になっているのではと思う
デマよりもたちの悪い無責任な希望のドラマ
大前提として僕らはやらざるを得なかった(得ない)のであるから
その中に喜びをみつけたかの様に書かれたり言われるのは非常に面倒臭い
それは"表面しかみていない部分"で悪口レベルのデマに似ている所がある
どうしてそんな風になってしまったのかと考えるまでもない
僕らのイメージはいつもの通りに出来上がってしまった

だからこそ個人を見れるネットというものがあるが
僕にしてみれば今はそれすらも表面的なものに成り下がってると思う
個人を見れるにも関わらず結局はカテゴライズしなければ判断できない人が大勢いる
更に悪いのは互いの同調が監視装置を生み出したという事
検索と言うシステムから今日もインスタントな憲兵が飛んで来る

そういったものへある種の可能性を強調する人々に哀れみを感じる事がある
以前あるkenjiとネットについて「簡単過ぎる」と話した事があり
「やったつもり、わかったつもり」になるには都合がいいものである
自由な場の自分たちのルールなつもりも
離れて見てみれば大きな流れに身を任せている様にしか見えないのも滑稽である
また、繋がったつもりになるのも
有効であったのは最初の数ヶ月であり
言葉は語り尽くされたのにも関わらず
そこに新規の監視員が名乗りを上げ
まるで新しい言葉を見つけたかの様にぐるぐると同じ所をまわり続ける
本人もそしてある種の読者も
震災のノスタルジーに陥ってるのは自明だ
それが新しいと勘違いした語り尽くされた言葉を欲する
それらが現実を見る事を困難にさせている

なぜ僕に言えるかと言うと
僕は福島の一人であるし
このブログの人々も一人の福島であるからだ
このブログをSNSと連動させたくないのもそういった考えがあるからだ

どれとも違って当たり前
同調など必要は無い
僕らは「聞け」と言う
あなたはきっとまだ聞く事ができていないからだ