ランダムなものの更なる効果は
意味論的には散乱の限りをつくした
『シナの或る百科事典』の「動物の分類表」に驚き入って
ミシェル・フーコーがやおら名づけた
「混在郷(エテオロトピー)」が引き起こす「不安」だけではない。
それはさらには
目的を破壊することが私の目的だ
と宣言していた現代音楽のジョン・ケージの
音と音との関係の非組織化の試みや、
ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』での
各章標題の頭文字のA.B.C順の配列などにも見られるように、
〈紋切り型(lieu commun=共通の場所)〉という
したたかに根深いものの後ろ姿に
それとなく貼りつきながら
覚えのない子を孕ませるところにもある。
それとなく貼りつきながら?
というのも、
作家カミュが『ペスト』のなかで、
主人公の医師リューに「抽象と戦うためには、
その抽象に幾分か似る必要がある」と語らせていたように、
〈共通の場所〉に貼りつくためには
それらに幾らか似ている必要もあるだろうから、
・・・・・つまりデリダが語った
戦略的なわずかの「襞(plis)」の差で、
あるいは、
マルセル・デュシャンの唱えていた、
まるで本物(元唄)同然の
差異の超薄状態(アンフラマンス)で。
まるで本物同然の?
なぜなら
本物なるものも、
何かの擬態、何かの複製、何かの反復にすぎないということを
闇は闇からしか見えないながらも
万華鏡的な闇として自ら発信しているからだ。
・・・・だが・・・・しかし・・・・
〈共通の場所〉の原生生物的な生命力には
「さあ、また来い」と、
ほとんど沈黙のマイスターとして
身構えていなければなるまいて。
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(註1)本ブログ2011年8月16日(火曜日)の「ランダムなもの」を乞ご参照。
(註2)フランス語の''lieu commun''は「紋切り型」=「共通の場所」。
言葉Y先生、写真K