英国ヴィクトリア朝の
奇想の詩人にして聖職者ジョン・ダン氏
———名高い作品「蚤」のなかでは
なかなか落ちない女に対して「僕」はイライラ
そこへ一匹の蚤がぴょんぴょん
———まずは「僕」の血を吸い
相手の血をもたっぷり吸ったあと
その「僕」曰く
「君が僕を拒んだことなど何の意味もない
こいつはまず僕の血を吸い
ついで君の血を吸った
こいつの中で僕らの血が混ざり合ったのだ———
———蚤には三つの命があるわけだから
蚤のおかげで僕らは結びついたのだ
こいつは君でもあるし 僕でもある
こいつは僕らの新床でもあり教会でもある」
なかなかやるな
このくそ坊主
一匹の教会のなかに
血がたっぷんことは
だが
蚤のなかでの〈大いなる成就〉もふくめて
(万葉時代の「愛し(かなし)」はともかく
「愛」をめぐってニホン語で何かを云うのは
発走以前の落馬ものだが・・・・)
どれほど蚤単位の愛であっても
それらは当の持ち主よりも
たぶん嵩張っているはずだから
自称「情無し」のランボーも不承不承認めたように
「まさか窓から放り出すわけにもゆかない」だろう
するとたとえば「情念引力」も?
「情念引力」?
これも放り出すわけにはゆかないだろう
これは十九世紀フランスの
めっぽう多幸症的な思想家シャルル・フーリエが
「万有引力」を梯子にして起こしてみせた
〈自〉と〈他〉が引きあうコスミックな「力」のことだ
しかもこの「力」とは
「決していまの幸せを
将来の幸せのために
犠牲にしてはならない。
その時に享受せよ。」
と促す「力」でもあり
詩人マラルメがのちほど目指す
「地球(=大地)のオルフェウス的解釈」さながらに
コンポーズ(作曲=反対物もろともに組み立て)されている。
つまり
この種の〈音楽〉は
〈多数〉を
まるごと
途方もなく大きなバケツで
ガバッと
一挙に
汲みあげていて
そこが何とも無茶で美しい
———美というやつは
どれほど無謀な速さであろうとも
おびただしい対立物を
きちっと
余さず
たたみ込んで来ているはずだから
言葉Y先生、写真K